野球少年(前編)

野球は、幼稚園の年長組から始めた記憶があります。ただし、最初はかなりヘタでした。小学1年生になると、同級生から声をかけられ、野球部に入りました。最初に守ったポジションはセンターです。
野球を始めたばかりで、キャッチボールもろくにできない状態でした。そんなある日、私が守るセンターにボールが上がりました。「センター!」と大きな声が飛びます。「中澤、任せたぞ」という意味のかけ声です。
野球では、フライが飛ぶと、野手同士がぶつからないように、または見合って落球しないように、声を掛け合います。
ボールはすごい速さで自分に向かって飛んできました。私は、怖くてグローブを顔の前に差し出して目をつぶってしまいました。「バシッ」。ボールは勝手にグローブに吸い込まれていました。ぼうぜんとしていると、「ナイスセンター」と称賛の声をかけられました。
そこから、私は野球が好きになり、練習もするようになったのです。とはいえ、父は仕事が忙しく、キャッチボールの相手をしてくれません。私の練習相手はもっぱら家の壁でした。壁にゴムボールをぶつけて、跳ね返ってきたボールをファーストに見立てた2階の壁へ投げるという動作を延々と繰り返しました。やがて、ゴムボールは軟式球に替わり、壁のダメージは大きくなります。中学3年生の時には、壁がボロボロになってしまいました。

これは私の気質かもしれませんが、お節介な私は、野球部でも仕切り役をしていました。他の学校のチームと交渉して試合を組んだり、試合のためのメンバー集めをしたり、そういった手配を喜々としてやっていました。当日、予定していたメンバーが来なくて、大変な思いをしたこともあります。当時、携帯電話なんかありませんから、本人に連絡して呼び出すことができません。翌日、「なんでこんかった!」と言っても、後の祭りです。
小学6年生になると、自分で言うのもなんですが、野球がかなりうまくなりました。小学3年生のチームの監督もやらせてもらうようになりました。大人よりもキャッチャーフライを上げるのが上手で、重宝されたものです。

ある時、近所の小学校のチームから、試合の申し込みがありました。しかし、その日は、うちのエースピッチャーと2番手ピッチャーが塾で試合に出られません。
「どうする? 試合やめるか」
「いやいやもう6年生やし、せっかくだからやりたい」
「じゃあ、誰が投げる?」
「中澤ピッチャーやれよ」
こんなやり取りがあって、私が急造ピッチャーとして登板することになりました。
当時、私はユーティリティープレーヤーで、器用にどこでも守っていました。特に、キャッチャーができる子は少なかったので、珍しい存在でした。しかし、ピッチャーとなると話は別です。
それは人生初の先発登板となりました。前の日、テレビのナイターを見て、事前練習をして試合に臨みました。今にして思えば、そんな程度の準備ですから、おのずと結果は見えています。
さて、われわれのチームですが、おそろいのユニホームがありません。各自が、自前で、バラバラに好きなユニホームを買って着ていました。まるで、野球チームに入れない子が親にユニホームを買ってもらったという感じでした。背番号は自分が好きな選手の番号を付けています。私は背番号3番と30番のユニホームを持っていました。
当時、プロ野球では背番号30番のサイドスローピッチャー(名前不明)が活躍していました。私はそれをテレビで見て、そのピッチャーに憧れて、背番号30番にしたのです。
「明日の試合はピッチャーやし30番でいこう」と思いました。しかし、母親から「やっぱり30番よりは3番やろ」と言われ、「ピッチャー長嶋かあ・・・」と違和感を覚えながらも、背番号3番で試合に臨むことにしました。
(後編に続きます)赤面する事態が・・・・・・