母の旅立ち

3月20日、最愛の母が天国へ旅立ちました。
母は、1931年1月1日生まれです。元日というおめでたい日に生まれ、しかも手相は徳川家康と同じで、感情線と知能線が1本につながる「ますかけ線」でした。母は、よく、自分の手相を見せて「大強運や」と自慢していたことを覚えています。
そんな強運の母でしたが、小さい頃に股関節を脱臼する病気を患いました。その時に、十分に治さなかったことが、その後の人生に大きな影響を与えることになります。

母は、尋常小学校、国民学校、青年学校を出て、地元の農協に就職しました。母の自慢は、早い段階で先輩を差しおいて農協の金庫番を任されたことです。よく「金庫の鍵を預かっていたことが誇らしかった」と言っていました。
母は、農協の仕事にやりがいを感じていましたが、突然辞めざるを得なくなりました。父親が娘の将来を考えて、勝手に結婚相手を決めてきてしまったからです。日本の家制度は、1947年の民法改正で廃止されましたが、当時は、まだまだ戸主が家族を支配する「家父長制」の考え方が根強く残っていました。父が決めたことには逆らえません。母は、顔も知らない相手の家に嫁いで行ったそうです。
そこで待っていたのは、壮絶な生活があったそうです。数年後、耐えられなくなった母は、生まれたばかりの子どもを残して、実家に逃げるように帰ってきました。
最愛の娘を置いて平気なわけがありませんそのしんどさは晩年も口に出しませんでした。
そして、私の父となる男性に出会います。
彼は、母より2歳年下で超貧乏でしたが、いつも生き生き働いていたそうです。彼は、母が働いていた電器屋さんに、つなぎ服姿で頻繁にやって来ました。彼は、来るたびに、そこで働いている女性たちに映画のチケットなどを配っていたそうです。しかし、なぜか母にはくれません。ある時、母が「私にもちょうだいよ」と言うと、彼は「いやあ、あなたは僕と行くんだからチケットはあげないよ」と言いました。それが、父からの「付き合ってください」という告白だったそうです。
父は超がつく貧乏でしたので、一番のデート服は真っ白に洗濯したつなぎ服でした。こうして交際を続けた二人は事実上結婚します。しかし、母は最初の結婚で相当懲りてしまったようで、2度目の結婚は失敗したくないと思ったのか、入籍したのは私の姉となる長女を妊娠した時だったそうです。
私の父は、前向きな人でしたから、いろいろな仕事に挑戦していきました。母も、父を支えようと懸命に働きました。しかし、当時は大変な貧乏生活だったようで、母はNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を見て、「本当の貧乏っていうのは、こんなもんじゃない」と自慢気に話していました。

やがて日本は高度経済成長期に入りました。父の仕事にも追い風が吹き始めます。父の学歴は尋常小学2年生で終わっていますが、人柄と誠意が認められて、地元の名士の方にかわいがっていただきました。口コミで人を紹介していただき、どんどん仕事を増やしていきました。そのような中で私が誕生したのです。
私が幼稚園児の頃、母は「脚(股関節)が痛い」と言い出しました。これまでの無理がたたり、完全に治っていなかった股関節の後遺症が出たのです。今は、簡単に手術で治療できる病気ですが、当時、高知では治療のすべがありませんでした。名医のうわさを聞いて、東京にも行きましたが、あまりよくなりません。
ある時、母が街で買い物をしていると、同じ病気をもつ方から声をかけられました。その人は、「奈良の県立医科大学附属病院に、上野教授という名医がいるのでその人を紹介してあげる」と言いました。母は、すがる思いで奈良の先生に診ていただくことにしました。約2年かけて両脚の手術をした結果、母は長年の痛みから解放されました。ついに杖なしで歩けるまでになります。晩年は心配なので杖を手放せなくなりますが

1976年、社長である父は、私が中学2年の時、スキルス胃がんで入院し、わずか1カ月ほどで亡くなってしまいました。43歳でした。葬儀を終えて、「さあ会社をどうしよう」となった時、母は「私がやります」と宣言して、みんなをビックリさせました。生前、父から「自分に万一の時は、会社と子どもたちを守ってほしい」と頼まれていたからでした。
こうして母は45歳で社長になりました。母はずっと専業主婦をしており、経営にはまったく携わってきませんでした。経営について、右も左もわからない母が、社内をまとめたり、同業者の寄り合いに出たりしたのですから、大変しんどかったことでしょう。その時のことについては、あまり話したがりませんでしたが、ある日、「あの頃は大変やったけど、あんたが入社するまでは、なにくそという気持ちで毎日出社したり、いろいろな会合に出たりしていたんよ」と話してくれたことがあります。
同業者の集まりの中には、女性経営者の会などもありました。母はそういう会に呼んでもらい、女性経営者さんたちに懇意にしていただいたそうです。ありがたいことです。中には、自分と同じようにご主人を早くに亡くした人もいて、お互いに励まし合っていたといいます。
余談ですが同じ境遇で仲良くして頂いた方のご子息が昨年三翠園で創立100周年記念式典と大宴会を開催してくださいましてなんとお母さまにもご挨拶をさせて頂けました。
お元気で母の事も懐かしんでくださいました。
母は、私が社長を引き継ぐ1997年まで社長職を務めてくれました。母は、口癖のように、毎日、毎日、「社員さんを大事にせないかん」「無駄遣いしたらいかん」と言っていたことを思い出します。
晩年になっても、会社を思う気持ちは変わらず、お客さまに関係する新聞記事を見つけると、赤ペンで囲み、記事を切り抜いていました。当社が取り上げられることがあれば、「お父さんが生きちゅったら、どれぐらい喜ぶやろねえ」とうれしそうに話していました。私も、母に喜んでもらいたくて、「明日、新聞に載るよ」とか「明日、ニュースに出るよ」と報告してあげました。私は還暦を超えていますが、いくつになっても私の活躍は母にとって心のビタミン剤だったようで、亡くなる直前まで新聞を楽しみにしていました。

晩年、母は抜群の人間力のおかげで、たくさんの友だちに恵まれました。昔から手先が器用な人で、得意な手芸を生かしていろいろ作品を作っていました。家にいた時は、よくキーホルダー作りをして、人にプレゼントしていました。人に喜んでいただけるのがうれしかったようです。
当社の社員さんはもちろん、近所の方やタクシーの運転手さん、金融機関の皆さんにも自分の作品をプレゼントしていました。毎回、毎回差し上げるので、受け取る方は大変だったと思いますが、皆さんのお気遣いのおかげで、母は生きがいを感じることができました。
90歳を超えても母は元気でいてくれて、電動カーを乗りこなし、近所のスーパーをはしごするなど充実した日々をブイブイ送っていました。ところが、一昨年あたりから、よく転ぶようになりました。ついには、骨粗しょう症のために骨の強度が低下して、いつの間にか骨折するようになってしまいました。こうなると自足歩行が困難で介護が必要です。しかし、私も妻も働いているため、24時間の介護はできません。介護してくださる方を雇ってお世話していただくことも考えたのですが、年中無休の24時間介護は無理です。家族でいろいろ話し合った結果、本人の希望もあって高齢者施設に入ることになりました。
幸い、ロータリークラブでお世話になっている方の高齢者施設に入れていただけました。2023年1月のことです。この施設は三翠園から徒歩2分ほどの距離にありました。施設の方のご理解やご厚情もあって、毎日、私は母と一緒に昼・夕食をとることができました。施設の方には、日々献身的なサポートもしていただき、感謝に堪えません。施設で母と過ごした1年間は、私にとってかけがえのない時間となりました。
母は、早く歩けるようになって家に帰りたいと言っていましたが、意に反して脚は衰え、食欲もなくなっていきました。
3月4日、母は南病院に入院しました。いよいよ衰弱が激しくなってきたからです。それでも母は、私が病室に顔を出すと「今日の三翠園はどう?」「お客さまは来ちゅう?」と、私のことを気にかけてくれました。私が「ああ、いっぱい来ちゅうよ」と答えると、母は「すごいね三翠園は。また見に行きたいよ。でも、こんな年寄りが行ったら皆に迷惑をかけるきねえ」と言って、以前から三翠園に行ける日を楽しみにしていました。
しかし、母は日増しに衰弱していきました。母が元気な時から、どのような旅立ちにして差し上げるか、本人も含めて家族で十分に話し合いをしてきました。南病院の南院長先生にも相談にのっていただきました。南先生には、本当に献身的なケアをしていただき、看護師の皆さんにも大変お世話になりました。
3月20日、3時22分、母は眠るように旅立っていきました。おかげさまで職場が近かったお陰で立ち会うことができました。母は、十分に人生を生ききったと思います。3人の子ども、たくさんの孫やひ孫にも恵まれました。皆さまのおかげで、母は、最高の人生を送ることができました。母に代わって、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。