誰もが幸せになれる飛行機(前編)

今ではもう行けなくなりましたが、母が元気な時は、よく一緒に県外の旅行に行ったものです。母は脚に障がいをもっています。母と旅行に行くと、車いすの人専用の通路を使うことができるため、混雑を回避できたり、手厚いサービスをいろいろ受けられたりしました。小学生の頃の思い出に、母と羽田空港を利用した際、空港が母のために乗用車を用意してくれて、飛行機とターミナルビルを送迎してもらった記憶があります。
しかし、高度経済成長期が終わると手厚いサービスは見直されました。飛行機とターミナルビルが直結していない場合、乗客はバスに乗って飛行機ないしターミナルビルに移動しますが、障がいをもつ人も他の乗客と同じく、バスを利用するようになりました。
当時、私たち親子にとって、このバスの利用が苦痛でした。飛行機に乗る際、障がい者は他の乗客より先に乗ります。降りるときは最後に降ります。飛行機が到着すると、私と母は、皆が先に乗って待っているバスにモタモタ乗ることになります。皆を待たせて申し訳ない気持ちと、さらし者になっているような気がしてとても嫌でした。
ですから飛行機に乗る際は、搭乗カウンターで「母は脚が不自由です。バスに乗る際、皆さんを待たせてしまいますから、帰りの便では歩いてターミナルビルに行きますので、車いすを用意しておいてください」と伝えるようにしていました。しかし、残念ながら、ほぼホウ・レン・ソウは伝わりません。
 高知-大阪間は何度も利用しましたが、当時はなかなか悲惨でした。まず往路の高知空港ですが、ターミナルビルと飛行機が直結していない時は、搭乗口から飛行機まで歩いて(車いすで)行きました。問題は伊丹空港です。ほとんどの場合、バスでターミナルビルまで移動しなければいけませんでした。
私たちは、最後に飛行機を降りますので2台目のバスに乗ることになります。しかし、当時、低床のバスは少なく、さらに乗降の階段は恐ろしく高いため、バスに乗るのが地獄に思えるほど大変でした。ですから、高知空港から乗る際、「すいませんが、低床のバスでないと非常に時間がかかってしまい、皆さんにご迷惑をかけますので、大阪では低床のバスに乗れるように手配してもらえませんか」と、毎回、懇願していました。さらに、空港間の連携が取れていないことを予想して、搭乗した飛行機の客室乗務員さんにも「すいませんが、もし連携が取れるなら、大阪空港で低床のバスに乗せていただけるように手配していただけますか」と念押しのお願いをしておきました。しかし、ここまでしてもホウ・レン・ソウができたことはまずありません。

さて、復路ですが、こんなことがありました。母と大阪に旅行に行った時のことです。私は仕事の関係でもう1日大阪に残らなくてはいけなくなりました。母は、旅行中、食事をしている時も「帰りのバスの階段はどうやろうね」と、ずっと気にしていました。旅行を楽しみに来たのか、バスを心配しに来たのかわからないくらいです。このような母を1人で帰すことなどできません。
私は、母と一緒に飛行機に乗っていったん高知へ帰り、とんぼ返りして大阪に戻ることにしました。
まず、伊丹空港の搭乗カウンターで「すいませんが、飛行機まで低床のバスを準備してください」とお願いしました。次に、「高知空港のバスは床が高すぎて乗れません。すいませんが、私たちは車いすでターミナルビルに行きますのでご手配ください」とお願いしました。職員は「わかりました」と言いました。
しかし、高知空港に伝わらないことはわかっていましたから、大阪からの飛行機の中で、また、客室乗務員さんに「すいませんが、先ほど搭乗カウンターの職員さんに、『高知空港に着いたら、車いすでターミナルビルに行きたいのでご手配ください』とお願いしましたが、よく忘れられてしまうので、車いすの手配を改めてお願いできますか」と念押ししました。すると、客室乗務員さんは「連絡はちゃんと伝わっていますから、大丈夫ですよ」と言いました。私は、「いや、実際、大丈夫じゃないから、私がこうして一緒についてきているんです」と言い返しましたが、「大丈夫」の一点張りで取り合ってくれません。
私たちが高知空港に着いた時は、雨が降り出していました。案の定、全く連携が取れていませんでした。私と母は、「ずぶぬれになっちゃうけど歩いて行こう」「だから心のこもったサービスをしてもらいたかったんですよ」とブツブツ言いながら歩き出しました。この時は、さすがに見かねた地上職員さんが急ぎ車いすを用意してくれました。
(後編に続きます)

※写真はもう無理ですが母と高知空港