人生の卒業証書
私は、幼稚園、小学、中学・高校、大学と、本当にいい先生に恵まれました。中学時代の先生とは、今でも手紙のやり取りをしていますし小学の先生はコロナ前には飲みに行ったこともあります。
高校の時の先生は、もう亡くなってしまいましたが、盆暮れのごあいさつだけでなく、毎年、お正月には先生宅に伺っていました。先生の奥様から「中澤は、誰よりもがんばってきたな」と言っていたよとこっそり教えてくれたのが嬉しかったです。
その先生は大倉浩典先生といいます。
2023年度前期 連続テレビ小説「らんまん」のモデルは、高知県出身で日本の植物学の父といわれる牧野富太郎さんです。大倉先生のお父さんの大倉幸也先生は、なんと、牧野富太郎博士と関係が深くそんな関係もあり高知の理科教育に貢献されて今でも大倉理科研究賞という賞もあるぐらいです。
大倉先生は僕たちに生物を教えていましたが、植物好きは、親譲りなのでしょう。
先生との1番の思い出は、なんといっても横倉山の遠足です。先生は、座学が苦手な私たちを、年1回、遠足という名のフィールドワークに連れ出してくれました。横倉山は、植物学者・牧野富太郎さんの研究の場であり、1300種類もの植物が観察できる植物の宝庫です。安徳天皇が隠れ住んだといわれる平家の伝説がある山で、安徳天皇の陵墓参考地は宮内庁管轄になっています。横倉山は、「幻想的で神秘・ロマンに包まれた山(越知町観光協会)」といわれています。
「植物ざんまいだよ」と先生は言いましたが、生徒たちは「もう絶対、そんなとこ遠足いやや。先生やめてくれ」と不満たらたらでした。しかし、先生は、まったくひるみません。それどころか、「これまで遠足でこの山に行って、後悔したやつは誰もおらん」と相手にしてくれません。
こうして私たちは、先生に引きずられるように遠足に行くことになりました。山歩きはなかなか大変で、全員、「やっぱり面白くないやん」などと、ぶつぶつ文句を言いながら歩いたことを覚えています。
しかし、山頂に着くと事態は一変します。飯ごうでご飯を炊いて、カレーライスを作って食べたのですが、これがめちゃくちゃ楽しかったのです。先生が言っていた「後悔した人がいない」という理由がわかりました。
私たちは、2年の時も遠足で横倉山に行きました。3年もその予定だったのですが、野球部が大躍進で甲子園が少し見えそうで全校で応援という理由で中止になってしまいました。皆、「えー、あの遠足行けんのかい」と大ブーイングでした。思えば、すっかり先生の術中にはまってしまったようです。
やがて、私たちは高校を卒業し、先生から巣立って行きました。先生は、卒業した生徒たちに、毎年、年賀状を送ってくださいました。その年賀状はとても先生らしいもので、植物の絵を描き、家庭用簡易印刷器でプリントしたものでした。
こんなエピソードがあります。先生は、一時、野球部の部長をしていましたが、ピッチングマシンが壊れたことがありました。先生は、卒業生に次のように連絡してきました。
「学校のピッチングマシンが壊れたんや。しかし修理する予算はない。そこで、お前たちに頼みがあるんだが、私の葬式の時に香典はいらんから、すまんけど香典の前払いということで、少し野球部に寄付してもらえんか」
びっくりしました。香典の前払いなんて聞いたことがありません。これは先生と生徒たちの関係を物語る出来事だと思います。ブルペンの屋根が壊れた際は、私に直接連絡してきて、「中澤、お前は会社の社長やろう、何とかせい」と言うのです。私は、喜んでブルペンの屋根をプレゼントしたものです。
、お正月になると、歴代の卒業生は先生宅に集まります。先輩や後輩などいろいろな人と知り合う機会でもあり、とても楽しい時間でした。
しかし、先生もご高齢で、心臓にペースメーカーを入れるなど体調がおもわしくなく、お正月に皆で集まることはなくなりました。それからは、手紙と電話のやり取りだけになってしまいました。
先生の奥さまは絶世の美女で、本当にお二人は仲むつまじく、うらやましいほどでした。しかし、その美人の奥さまは、ある日、急逝してしまいました。先生の落胆ぶりは、見ていられないほどです。
先生とは、その後もやり取りを続けていましたが、去年の4月に、先生から一通の手紙が届きました。そこには、「人生の卒業証書」と書いてありました。
「この手紙が届いた時は、私が人生を卒業した時です。長年ありがとう。これをもって私は人生を卒業します」
先生は、字を書ける体力があるうちに、生徒たち一人ひとりに手紙を書いておいてくれたのです。人生を卒業する3年くらい前に書いたものでした。もしもの時がきたら、ご家族が生徒たちに手紙を投函する手はずになっていました。
私たち生徒は、その手紙を読んで、初めて先生が亡くなったことを知りました。葬儀はすでに終わっていました。皆、香典を前払いしていましたので、葬儀はなしだったのでしょう。なんとも先生らしい、かっこいい逝き方でした。
その後、高知新聞の読者の広場に、ある看護師さんの記事が掲載されました。私の高校は、看護科があり、卒業生には看護師さんも沢山います。新聞記事の看護師さんは卒業生でした。記事には、「私の先生が、人生の卒業証書という手紙を書いて、人生を卒業されました」と書いてありました。先生は、たくさんの教え子に夢を与えてきたのですね。
先生、ありがとうございました。