父の苦い思い出

私の父は、貧乏な農家の四男として生まれました。貧しくて学校に通えず、父の学歴は尋常小学校2年生で終わっています。
父は、いや応なしに幼いころから家の農作業を手伝ってきました。かなり苦労をしてきたため、43歳の時には60歳ぐらいに見えるほど老けていました。
父は、我慢強い人で、幼少期の貧しさについては多くを語りません。しかし、晩年、父から、「学校の隣の畑で農作業している姿を、同級生に見られるたびに冷やかされたのが恥ずかしかった」と聞いたことがあります。よほど嫌だったのでしょう。
大人になった父は、いろいろな仕事に就きます。セールスマンをしていた時のことです。苦労してきた父への「天からの恩情」でしょうか、奇跡的に命拾いした出来事がありました。それは、1955年5月11日でした。普段勤勉な父ですが、この日に限って、前の晩の深酒が残り、寝坊してしまいました。結果、乗るはずだった宇高連絡船の紫雲丸に乗り損ねてしまいます。父が乗るはずだった紫雲丸は、この日、第三宇高丸と衝突し、沈没しました。168人が死亡した「紫雲丸事故」です。
 その後、父は、母と力を合わせて浄化槽管理会社を設立しました。夫婦で一生懸命に働き、1軒1軒お客さまを獲得していきます。父は、人柄と誠意だけでやってきた人で、いろいろなお客さまにかわいがっていただき、少しずつ仕事を増やしていきました。
そんなある時、父は体調を崩し、入院することになりました。その時、事件が起こりました。父は入院している間、一緒に働いていた兄に仕事を任せました。ところが、社員さんの一人が、父がいない間に自分の会社を立ち上げ、会社のお客さまを半分持っていってしまったのです。どういうことかといいますと、その人は、会社に働きながら、お客さまを回り「来月から、このエリアはこの会社に業務を委託することになりました」と言って歩いたのです。「この会社」とは、その社員さんが立ち上げた会社でした。お客さまにしてみれば、会社の制服を着た人が言うことですから、変に思わなかったようです。
父は、無事に退院することができましたが、退院した時には、今まで夫婦で苦労してつくってきた売り上げの半分を持っていかれてしまっていました。父は、私にこの話を一切しませんでした。この話は、父が亡くなった後、母が教えてくれました。父は、さぞかし残念で情けなかったことでしょう。こんな人の道から外れるようなことをして、経営がうまくいくはずがありません。
先日、経営の神様といわれた稲盛和夫さんが亡くなりました。稲盛さんの言葉に「動機善なりや、私心なかりしか」という名言があります。きっと父の経営も、そうだったんだろうなあと思います。

※写真は父が33歳の頃