お酒のトラウマ

私はお酒を飲む時は楽しく飲もうと決めています。どうせだったら、皆で和気あいあい楽しく、周りの人からも「あのテーブル楽しそうやね」と言われるように飲みたいと思っています。実は、これには理由があります。それは大学時代の強烈なトラウマ体験です。
私の大学は大阪でした。高知からは通えませんので、寮に入ることになりました。学生課で寮を紹介してもらうのですが、「上級生がいる寮だと、いじめられるかもしれん」と母が心配したため、「1年生しか居ません」という寮をお世話してもらうことにしました。
その寮は、学校の近くにありました。京間の4畳半一間の部屋で、全部で8室、お風呂は共同、トイレも共同のポッチャン便所、それで家賃月額1万円でした。入って、まずびっくりしたのは、いないはずの上級生が5名もいたことです。「全然話違うやん」。もうこの段階でうちの大学のいいかげんさが露呈しました。
この寮を選んだ理由は、上級生がいない(実際はいましたが)ことのほかに、もう一つありました。それは、賄いつきだったことです。一人暮らしなので、「朝晩、賄いがあった方がええやろ」という母の配慮でした。賄いは、当時、朝・夕食で月2万4000円です。実は、この「賄い」こそがトラウマの入り口となったのです。
寮を経営していた会社には倉庫があり、寮はその倉庫の2階にありました。1階は倉庫ですから食堂がありません。それでどうして賄いつきになるのかというと、倉庫の隣に喫茶店があって、そこで賄いを出すということだったのです。この喫茶店を営んでいる夫婦は、寮の経営者の遠い親戚だと聞きました。
入寮初日、私は、喫茶店に連れて行かれました。「ここでご飯を食べなさい」と言われ、マスターとママさんを紹介してもらいました。ママさんは、バリバリ大阪弁のすごくきれいなおばちゃんでした。それに対してマスターは、とてもおとなしそうなおっちゃんでした。
ところが、寮に入ってみると、いろんなうわさが耳に入ってきました。「ここのマスターはかなりやばいらしい」と言うのです。
「えー、私にはかなりいい人に見えましたけど」
「いやいや、かなりやばい。酒乱やで、酒を飲んだら人がガラリと変わる」
「えっ、ホントですか?」
「元ヤクザで入れ墨があって、それを消しているらしい」
「マジですか!」
怖くなって詳しく聞いてみると、なんでも毎日酒を飲むわけではないが、飲むと酒が止まらなくなり泥酔するとか、飲んだら寮がある2階に上がってきて学生に絡み出すとか、「何それ?」みたいな話がたくさん出てきました。
マスターは、和歌山に船を持っているらしく、たまに和歌山に船に乗りに行くそうです。1人で行ってもつまらないので、無理やり学生を連れて行くといいます。今では片道2時間もかからないと思いますが、当時は4時間以上かけて和歌山に連れて行かれ、マスターの船に乗せられました。船では釣りをするのですが、全然釣れなくて、船酔いで地獄だといいます。学生たちは、連れて行かれるのが恐怖で、次は誰になるのか不安でいっぱいでした。私は、4年間のうちに1度だけ誘われたのですが、急にドタキャンになって、私は難を逃れました。結局、1度も船に乗せられなかったのは私だけでした。この点はラッキーでした。
しかし、私には酒の難が待っていたのです。それはある日突然襲ってきました。マスターがしこたま酒を飲んで、倉庫の階段を上がって来る音が聞こえました。マスターは、コンコンと部屋のドアをたたいて回っているようです。私は、運悪く部屋にいたため、つかまってしまいました。
「われ、お前、話がある」とか言って、なんかしゃべっていますが、酔っているから何を言っているのかわかりません。めちゃくちゃ絡まれて最悪です。ひとしきり絡まれた後は酒を飲みに連れて行かれました。学生は運転手をさせられるのです。
マスターは、バーでしこたま酒を飲んだ後、学生に車を運転させて帰るのですが、おかしなことに、当時、その地域のバーは駐車場を完備していました。客は車で来て飲むという、訳のわからんことになっていました。今では、ありえないことです。
バーに入ると、マスターは最初こそ機嫌よく飲んでいますが、途中から酔ってベロベロになり、隣の客に絡み出すというパターンを繰り返します。近所でも有名なおっちゃんで、「酒さえ飲まんかったらいいおっちゃんなんだけど」と言われていました。
このように、学生たちはおっちゃんの被害に遭うのですが、私はというと特に気に入られてしまい、大学時代の4年間、連れ回されることになりました。たぶん、お人よしで、話を聞いてあげた(断れなかっただけですが)からだと思います。「そうですね」とベロベロのおっちゃんの話を聞いているうちに、別格扱いになってしまい、銭湯にもよく連れて行かれ、帰りには屋台で一緒に一杯ひっかけて帰ったものです。
どこでそうなったのか記憶にありませんが、ある時から「うちの娘と結婚してくれ」と言われるようになりました。おっちゃんの娘さんは、なかなかの美人でした。元歌手だったらしく、歌が死ぬほどうまかったことを覚えています。ただし、スナックなどで歌い出すと、元歌手のプライドがあるのか、カラオケを信じられない曲数歌うので、周りもゾッとして言葉が出なくなります。しかも、酔ったらもうめちゃくちゃ酒癖が悪くて、これまたどうにもならん娘さんでした。昼間、大阪の街中に買い物に行きたくなると、学生を運転手代わりに使いますので、中には、出席単位が危ないのに授業に出られなかったという学生もいました。なぜか、私はこの娘さんにもかわいがってもらい、毎日、お昼のお弁当を作ってもらっていました。たぶん私以外に酒乱につき合ってくれるお人よしはいなかったのでしょう。
おっちゃんは、娘がかつて所属していた芸能プロダクションのしわしわになった名刺を大事に持っていて、「もし歌手になりたかったら俺に言え、なんとかしちゃる」とよく言っていました。私は、歌の世界に明るくありませんでしたが、「ありえません!」みたいな話です。
なんとか、おっちゃんたちとの4年間が過ぎ、私は無事に大学を卒業することができました。「もう二度とあの大学と寮には近寄らんどこう」と誓っていたのですが、10年ぐらい前に、寮の先輩と大学に行った時、怖い物見たさで寮と喫茶店をこっそり見に行ってみました。卒業以来初めてでした。寮を経営していた会社は廃業して、喫茶店もありませんでした。よく行っていた近所のおいしいお好み焼き屋さんがまだありましたので、懐かしくて入ってみました。そこのマスターは、当時、元漫才師で俳優の石倉三郎さんみたいな風貌で、リーゼントを決めて、ギンギンのネックレスをしていました。あっちの世界から足を洗ってお好み焼き屋を始めましたというような、ある種、かっこいいおっちゃんでしたが、なんと背中が曲がって髪の毛も真っ白になって、ちっちゃくなっていました。それでも、僕たちのことを覚えていてくれて、昔話で盛り上がりました。
廃業した会社の社長さんは4人兄弟でした。僕らがお好み焼きを食べていると、下の兄弟の方が偶然お店にいらしてびっくりしました。会社は円満にたたんだようで、安心しました。なんか当時の話をしていると、タイムスリップしたみたいで、懐かしかったことを覚えています。

話が長くなりましたが、大学時代、大体、3日に1回ローテーションで学生たちは酒にまつわる被害に遭っていました。特に、最後の方はいつも私がご指名を受けるようになりましたので、すべての災いを一手に引き受けてしまった形になりました。かわいがってもらったとは思いますが、青春時代の非常に大切な個人的な時間を拘束されて、酔っぱらいの聞き役に徹し続けましたので、つらかった思いがあります。
今となっては、すべてが懐かしい思い出ですが、こういうトラウマがあって、お酒を飲んだら絶対楽しく飲もうと、心に決めているのです。