まな板に載った先生 ~大倉先生の思い出(前編)~

今日は、私の高校時代の恩師、大倉浩典(おおくら こうすけ)先生についてお話ししようと思います。
先生の担当科目は生物です。先生の植物好きは、親譲りだったことが後になってわかりました。
先生との1番の思い出は、横倉山の遠足です。横倉山は、連続テレビ小説「らんまん」のモデルとなった植物学者・牧野富太郎博士の研究の場として有名です。詳しくは、私のブログ「人生の卒業証書」(2022.9.19)をご覧ください。
先生は、座学が苦手な僕たちを、年1回、遠足という名のフィールドワークに連れ出してくれました。しかし、当初、僕たちは遠足にまったく乗り気ではありませんでした。「この年になって遠足かよ」「草花を見る? もう勘弁してよ」「遠足なんていやや」。しかも、先生は足がめちゃくちゃ速くて、がんがん登って行きます。僕らは、「もう、やめてー」とぶーたれながら、先生に引きずられるようにして登って行きました。
先生は、遠足に行く前「過去教師生活を30年やっているが、今までこの遠足に行って、つまらんと言ったやつは一人もおらん。だまされたと思ってついてこい」と言っていましたが、その理由が山頂に着いてわかりました。山頂では、皆で、わいわい飯ごうでご飯を炊き、カレーライスを作って食べたのですが、これがめちゃくちゃうまく、楽しかったのです。
一発で味を占めた僕たちは、2年生、3年生と遠足を心待ちにしていました。しかし、3年生の遠足は急きょ取りやめになってしまいました。その年、野球部が大躍進して、甲子園が見えたということで、遠足を中止にして全員で野球の応援に行くことになったからです。「えー、遠足行けんのかい」と大ブーイングでした。

さて、先生との思い出で、もう一つ印象に残った話があります。それは、1年生の時に先生から聞いた奄美大島での話です。
先生は、若い頃、植物学者 大倉幸也さんの息子であることを重荷に感じたそうです。以下、書籍「大倉幸也先生」大倉幸也先生をたたえる会実行委員会編 高知県科学教育研究会発行(昭和63年非売品)より引用します。
先生は、「植物に対する関心は同年代の他の者よりも強かった」にもかかわらず、周囲の人たちから「お父さんの跡を継ぐがじゃろう」「お父さんの跡を継ぎなさいよ」などと散々言われ続けたため、「意地でも植物には目をくれず、ただひたすら山登りに専念してみたり、大学進学の時も、親父が「雑草」なら自分は「園芸植物」をと園芸学科に進学をしてみたり、卒業の時も、高知に帰ると教師にならされるのを恐れて奄美大島で生活してみたり、今から思うと、親父の影から逃げ出すことばかり考えていた」といいます。しかし、結局、「昭和三十八年に中央高校(高知中央高等学校)が創立され、縁あって最も恐れていた教師として勤務」することになりました。

 さて、大倉先生は教師になる前、何人かの友人と奄美大島で暮らしていましたが、そこで大変な体験をされたそうです。当時、奄美大島の農業は、サトウキビとサツマイモに頼っていました。先生は住民の生活を楽にするために、綿花の栽培方法を教えて回ったそうです。住民の役に立ちたいという一心で、一所懸命だったといいます。
 こうした熱意の結果、少しずつ住民たちの協力が得られるようになり、皆が本気になって綿花栽培に取り組んだそうです。「これはいける」と思った矢先、思ってもみなかった害虫か何かの被害で栽培していた綿花が全滅してしまいました。
「話が違うじゃないか!」。怒った住民たちは先生の家に押しかけました。先生は「もう命はないな」と思ったそうです。怒髪天を突く形相の住民たちを前にして、先生は「本当に申し訳ない。逃げも隠れもしません。煮るなり焼くなりしてください」と平謝りしました。
 住民たちは、その先生の姿を見て、それ以上責め立てることはしなかったそうです。なんだかんだあっても、住民たちのために尽くしてくれたことを誰もがわかっていたからです。先生は、この時のことを「殺されるかと思ったが、皆に感謝された」と授業で話してくれました。

 先生は、その後、お父さんの大倉幸也さんと一緒に植物採集をして回るようになります。昭和五十年からは屋久島に行くようになり、暇さえあれば親子で屋久島通いをしていたそうです。
晩年、卒業生の僕らに、当時の屋久島は道が整備されておらず、「縄文杉まで片道6時間もかかった」と、楽しそうに話してくれたことを思い出します。

写真はウエルカムアイスクリーム(無料)