幸せな食事
私は大変な食いしん坊なので、食べ歩きも私の趣味のひとつです。楽しい思い出がたくさんありますが、なかには苦い思い出もあります。これは私が二十代半ばのころの話です。そんな昔の話をよく覚えているものだと自分でも感心しますが、それほど嫌な体験だったということでしょう。
その日、私は大阪のあるホテルに宿泊しました。そのホテルにはステーキハウスがはいっています。店の前を通った時、漂ってきたおいしそうな匂いに、私の頭の中はステーキの肉汁でいっぱいになってしまいました。もう、がまんできません。今夜は、思い切ってステーキにしました。
とはいえ、大学出たての若造ですから、ホテルのステーキハウスの門をくぐるのは、勇気がいります。恐る恐る店に入ったところで、お店の方に呼び止められました。
「お客さま・・・すみません、ただいま満席で、ご案内するのはちょっと難しいです」
変な言い方でした。まだ18時ぐらいだったと思います。早い時間なので、席があると思ったのですが、「満席」と言われました。しかし、私はステーキを食べている自分しか想像できなくなっていたので、「それなら、席が空いたらでいいので、部屋に連絡してもらえますか? 僕は部屋で待っていますから」と食い下がりました。お店の方があきれたように私のズボンを指さして、「そのスボンではちょっと・・・」と言いました。私はジーンズをはいていたのです。「あ、はい、わかりました、それでは着替えて店に行きますので空いたら連絡してください」と頼み、部屋に入りました。
話はわき道にそれますが、ジーンズの嫌な思い出がもう一つあります。これも二十代前半の頃だったと思います。ジーンズでゴルフ場のクラブハウスに入ろうとした時、知らない人が立ちはだかり「そんなの着てきたらいかんぞ!」と怒鳴って、いきなりジーンズをつかまれました。向こうは常連さん、こちらは若造です。何も言えませんでした。私は、優位な立場の人が偉そうに振る舞うのを見るのが苦手です。「同じ人間なのに変だなあ」と思うのです。
さて、話をレストランに戻します。私は部屋で連絡がくるのをひたすら待っていました。しかし、待てど暮らせど連絡はきません。すでに20時を回っていました。「おかしいなあ」と思い、部屋からレストランに電話してみたところ、お店の方が「あっ・・・」と絶句しました。間違いなく私は忘れられていたのです。
この時点で、私はかなり気分を害していました。入店時の断り方、ドレスコードの指摘、態度、すべてが感じ悪かったのです。「それほどこの店は偉いんかい」「ここは、それほど偉そうにせんといかんのかい」と喉まで出かかりましたがこらえました。
さすがにお店の人も自分が忘れていた負い目もあってか、ようやくレストランに入ることができました。私は、ズボンを着替え、ワイシャツとスラックスの組み合わせで店に行きました。
やがて、私の席にステーキが運ばれてきました。「待ちに待ったステーキ!」のはずが、慣れない場所と服装もあって、何か窮屈で、息苦しくて、お肉が喉を通りません。まったく食事が楽しめないのです。
さらに、極めつけのことが起こります。近くのテーブルには、北新地で働いていると思われる女性と、同伴の熟年男性がいました。彼女の派手な真珠のネックレスが印象に残っています。その2人は、私を見て何か言っていたかと思うと、お店の人を呼んで「おいおい、ここは上着なくても入れるんかい」などと、私に聞こえるようにケチをつけました。お店の人からはズボンのことは注意されましたが、上着着用とは聞いていません。お店の人と客は、なにやら小声で話しています。「田舎者だから許してやるか」などと話しているように聞こえました。
真珠の彼女と男性は、クスクス笑ったり、ヒソヒソ何かを話したりしています。私にとって、この場所でステーキを食べることは苦痛以外の何ものでもなくなりました。まったくおいしくないのです。味がしないステーキを食べたのは初めてでした。
「一刻も早く帰りたい」。頭の中はそれだけでした。お店の人を呼んで、「もういいです。お勘定をお願いします」と言って席を立とうとすると、「でも、まだデザートがありますから」と制します。「えっ、もう、デザートも何もいりません」と言って会計に歩き出しました。早く逃げ帰りたかったのです。後ろから、あの2人の笑い声が聞こえます。会計をしたお店の人の態度は、「一昨日おいで」といった感じでした。とても嫌な思い出です。
食事は、五感で楽しむもので、幸せになるためのものだと思います。いくら料理が高級でも、それだけでは味覚が喜ぶだけです。幸せ感までは味わえません。
お店に入ってから、お店を出るまでの間に、かかわったすべての人によって、幸せ感はつくられるのだと思います。それこそが食事の楽しみであり、味わいではないでしょうか。
いいお店は、お店を出た後に「幸せの余韻」にひたれます。三翠園も、お客さまに幸せの余韻を感じていただけるように、ますます皆で顔晴ります。
30年後にそのお店に行きました「こんなにしょぼかったんかい」と驚きました。
そしてお店の方と笑いが絶えることなく美味しく頂きました。
そして若いカップルが恐る恐る入ってしました。そんな時はいつも心がけている事があります。
またいつかご紹介させて頂きます。
※写真は大好きなお店のイカのガーリック炒めです 最近イカが取れなくなったそうです